2003年3月3日、冗談のようなこの日、早期退職をした。その後タイへ「なんちゃって移住」、ホームページを作っていたが、かったるくなりブログへ移行。
2015年9月、タイ最後の地チェンマイに引っ越す、しかしチェンマイは田舎者にはあまりの都会で戸惑い中、やっぱり田舎の方がいいや。
2016年3月、12年数カ月住んだタイ国を離れ帰国、おとなしく日本に定住出来るのか(笑)

2011年12月31日土曜日

2011年12月

1日 : 90日ごとの居住地登録の為カンタンのイミグレに行った、珍しく白人の兄ちゃんが「家主の住民票(みたいな物)を持って来ればいいんだな」とか言ってる、トランに住むのか? そいつが出て行ったら入れ違いにいい年の白人が入って来た、この頃、住んでいそうな白人見るんだけど、トランも国際都市になりつつある(笑)。

6日 : マレーシアから帰ってまだ色々と整理がつかないんだが明日パチュアップキリカンに行こうと思っている、1941年12月8日にタイ南部に日本軍が上陸、戦闘があった、ナコンシータマラートチュンポンパチュアップなどに慰霊碑やモニュメントがある、毎年12月8日には追悼慰霊祭があると以前どこかで目にした、どこだったのか定かではないし、全ての場所で行われるのかも知れない、今年は丁度70年目になる、そこで途中のモニュメントなどに寄って一番遠いパチュアップに行く事にした。

7日 : 朝早くトランを出てまずナコンシータマラートへ、モニュメント前の建物に飾りつけやテント、椅子などが置いてある、入ってみると日本軍が上陸した時の事など資料が張り出されていて奥の方に若い兵隊が二人、掃除などしているので明日ここで式典があるのか尋ねてみた、毎年あるとの返事だった。
チュンポンもテントなど用意をしていた、やはり明日朝式典があるとの事です。

さて目的地であるパチュアップですが、4時頃基地に到着、ここには屋台など並んでちょっとしたお祭りのよう、いつもは見ない飛行機など3機編隊で飛び回ったりしている、慰霊碑のある一帯は通行禁止となっていて兵隊やら見物人(?)やらが沢山いる、何かやるような雰囲気なので交通整理をしている兵隊に聞いたら今日6時から式典があるとの事、明日じゃないの?って訊いたら明日朝にもあるとの事、急いでホテルにチェックインしてシャワーを浴びて基地に引き返す、いましたよ、上陸を控えているというのに全く緊張感のない日本兵が(笑)、写真を撮っていたら、日本人か?って話しかけて来た、これがその時の銃だって言ってたけど菊の紋もないし、違う物だな、タイ兵役の銃は完璧そうに見えるが日本兵の持ってる銃は部品が全くないものばかり、大分差をつけられているって感じ、こんな格好をした者までいるのだから式典後は当時の戦闘の再現でもするのか?って見ていたんだけれども、偉いさんやらのスピーチの後、タイ国歌で終了、タイの兵隊も日本軍の兵隊もタイの兵隊の号令で整然とどこかへ帰って行ってしまった。

8日 : 朝5時、凄い雷と雨音で目が覚めた、今日の慰霊祭どうなんだろうか? 日本兵も何かやりそうだし、雨が止んでくれるといいんだが。
7時頃、雨が小降りになったのでホテルをチェックアウトして基地へ向かう、相当数の花輪が用意されていて、記念碑の周りに並べられるのだろう、ウロウロしていたらおばちゃん兵が「日本人ですか?」とタイ語で尋ねてきた、普通英語にするか日本語だろう、「そうです」って答えたら「タイ語がお上手ですね」ときた、「そうです」だけでお上手って言われてもねぇ、余程発音がタイ人並みにいいらしい(笑)。
コーヒーでもどうぞってコーヒーを入れてくれたのでテーブルで飲んでいたら、退役軍人のようなおじさんが「日本人みたいな顔してるな」って言う、おばちゃん兵が「あら、この人日本人ですよ」と言ってくれた、おじさんは「じゃ、サラパオ(饅頭)食え」って持って来た、日本人とサラパオ、何かあるのか、おじさんムスッとした顔してるし、70年前の恨みを毒入り饅頭で晴らすって事もなく、肉まん、アンまん、朝飯食べてないし有難く頂きました、
そんな事しているうちに花輪の送り主が紹介され次々と記念碑に捧げられる、ぽつりぽつりと偉そうな人達が来たりしていつの間にか式は始まっているらしい、兵隊達(日本兵を含む)や軍楽隊などが整列し本格的に始まったのは9時半頃、しばらくしたらF16が2機飛来、ひょっとして皇太子?と思ったが2度ローパスして飛び去ったようだ、多分ナコンシータマラートやチュンポンでもローパスしたんだろう。
まあそんなで11時頃終わったんだけど、日本兵は整列してただけで別に何もなかった、でもその昔、攻め込んだわけではないものの、なぜ上陸し戦闘となった日本兵が参列しているんだろうか?
花輪なども日本関係のものはないようだったが、どうなんだろうか、それと日本兵が掲げていた日の丸、白地に赤丸でいいんだろって物でまるで「日の丸弁当」って感じ、クンユアムの博物館の赤丸は大きすぎ。
会場に流れていた音楽の中に「12月8日」から始まる歌があって、当時の事を歌っているんだろうけど中に「サムライ」って出てくる、歌の内容が判らないのが残念だ。

雨でどうなる事やらと心配したが、式の間、パラパラとは降ったものの大した事もなく良かった、11時だし、どうしようかトランに向かって走りながら考える、迷っている事があって、中々決まらない、そんな大げさな事じゃなくて、チュンポンの博物館に行くか行かないかという問題(笑)、これが私にとっては大きな問題、今までさんざ博物館と名の付く所でガッカリしてきている、バンコクはともかく、地方の公営博物館、そんな多くの国の博物館に入ったわけじゃないけど、大人、子供の料金の違いはあっても外国人料金ってのは記憶にない、ここタイ国は差別の国、外国人はタイ人の5倍も10倍も盗られる、日本の料金を考えれば、納得出来ないものの払えない金額ではない、内容が伴えば。そういうわけでチュンポンの博物館ギリギリになるまで迷っていた(小物だねェ、笑)、ここで曲がらなければという所まで来てハンドルを左へ、博物館へ行って見る事にした、博物館には観光バスが何台か止まっていて、チビッチャイのが先生に連れられて見学に来ている、入り口入ってもチケット売っているような所は見当たらない、タダか?と思ったが、右側のカウンターにお姉さんとお姉さんらしきお兄さんが座っているので、チケットはどこで売っているのか訊いてみた、100バーツだと、チケット握り締めて館内へ、なんと一回り5分で終了、3っ程展示室があったんだけど、どっか他にも展示室があるんじゃないかとうろうろしたのが5分、やられましたよ、大きな声で言います、「行くなとは言いません」。
少年義勇兵関連展示室
   
この大層なタイトルの付いた展示室、中身は右の写真2枚だけ、もう一度言います、「行くなとは言いません」。

まあ、そんな博物館なんだけど、他の博物館と違って写真撮り放題、って大して撮るものないんだけど、チビッチャイの連れた先生方がそこいらで記念撮影してました。

おかげでトラン着7時半、無駄な寄り道、無駄使いしてなきゃ6時には帰れたな、疲れた。

10日 : 今日から三日間タイは連休です、って毎日連休の私には関係ありませんが、資料を整理していたら、サトゥンの博物館のチケットが出て来た、サトゥンの時は「サワディカップ(こんにちは)」の一言でタイ人価格にしてくれた上案内までしてくれた、チュンポンの博物館のお姉さんはタイ語で訊いたのにぶっきらぼうに「ワンハンドレッドバーツ」とかえした、一瞬迷ったのだけれど「少年義勇兵」関連があるはずだからと100バーツ払った、所が全くないと言ってもいいくらいなかった、その他のものもわざわざあそこまで行って100バーツ払う事もないと思う、タイ人価格10バーツなら見てあげる。
(上) チュンポン博物館 外国人用 100バーツ

(下) サトゥン博物館 タイ人用 10バーツ

県の博物館ならどこも同じだと思う、チュンポンには記載がなかったが、入場券売り場に記載がある、外国人用には英語で100バーツと書いてあってタイ人用には外国人にわからない様(笑)タイ語で10バーツと書いてある。
これは博物館に限らず、国立公園だとかも同様、個人経営の施設でも差をつけている所がある。
ある所で、なんで差をつけるの?って訊いた事があって、答えが「外国人はお金持ちだから」って答えだった、タイ国は地球上の最貧国らしい。
しかしアメージングなタイランド、どこもかしこも外国人料金か、というとそうでもなくて、サトゥンのように挨拶だけでタイ人料金を適用してくれたり、2人で一人分にしてくれたり、タイの免許証を提示したらタイ人料金にしてくれたりと様々、日本では考えられない柔軟な(笑)対応が出来る(?)ので駄目もとで「タイ人じゃ駄目?」って言ってみるのもいいかも、ちなみに、チュンポンの入場券番号は7番、今年7人目か、それとも開館してから7人目か(笑)。

14日 : 寒い、この頃朝寒い、夜もペラペラの布でも掛けないとちょっと寒い、今だって25度もあるのに寒い、とても水シャワー(温水シャワーないんですよ)など浴びる気にはならず、昼間暖かくなってから浴びる、でも今日は決死の覚悟(笑)でシャワーを浴びる、ディーラーに車の点検をお願いに行くから、この頃大して車も動かさないので不都合もないとは思うんだが、今週末から2週間程イサーンに行くので点検でもしておくかって事、日本の様に持ち込んだだけで大層な金額になるなんて事もないし。

なんて思って車持ち込んだんだけど、色々と交換した方がいいと言われた、部品の名前など言われてもわからないので整備中の車で説明してもらった、指摘された所を全部やると14、000バーツぐらいになっちゃうので、今日の所はブレーキ関係やら走りに関わる所だけで勘弁、残りはイサーンから帰ってからという事にした、それでも4、600バーツと普段じゃ持っていない金額だった、別にそんな予感がしたわけじゃないけど5,000バーツ程財布に入れて行って良かった。

16日~25日 : イサーン(東北地方)へ

29日 : 今年もあとわずか、イサーンから帰って来てあまり外にも出かけない、だから毎日の出費が朝のパートンコー5バーツだけ、こんな悲惨な生活で今年も終わりそう。

30日 : 年末年始の天気予報によると南部のスラタニ、ナコンシータマラート、パタルン、ソンクラー、ヤラー、サトゥン、ナラティワート、クラビ、トラン、パタニの10県では、1月1日ごろまで豪雨と高潮に注意とある、家に篭っているのは正解だな。

31日 : 朝、いつものようにパートンコーを買いに行ったら、おばちゃん連中がいつものように世間話をしている、おまわりがピストルを撃ったらしい、途中からだから詳しい事はわからないがトランでの出来事で、何かの個人的な揉め事らしい、このところ警官のそんな事件が多い、ま、銃器がそこらにある国なので発砲事件が珍しいわけではないが。

天気予報どおり豪雨ではないが雨になった、発砲事件で思い出したピストルの事を記事にして今年最後の更新とする、どうぞ、皆様良いお年をお迎え下さい。

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2 件のコメント:

  1. 2003/3/3 素晴らしいブログ発見!!
    まだ数ページ、これからじっくり読ませてください。
    バイブルになりそうな衝撃です。
    2011/11/11の11/11m/11sは気が付かずに惜しいことした。
    当日は11/11/11のキープボトル、フェルトペン縦線8本??で気が付かされた。

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  2. BONさん、ありがとうございます。
    これからもマイペースでやっていきます。
    宜しく。

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